プロ野球界で人気のセ・リーグ

セ・リーグ

現在の日本で最も人気のあるスポーツは何かと考えると、若い世代の人たちから絶大な支持を受け、特に日本代表の試合には多くの日本人が熱い視線を送るサッカーを挙げることになるでしよう。しかし現在では影が薄くなってきている野球が、昔は現在のサッカー以上に、日本人に愛されていた時代があるのです。特にプロ野球界に二つ存在するリーグの内の一つである、セ・リーグの人気にはすごいものがありました。

セ・リーグとはセントラル・リーグの略のことで、1950年に開始された当時は七球団が参加していましたが、その後球団の脱退や入れ替わりなどの変遷を経て、現在では六球団で構成されています。このセ・リーグがかつて大変な人気を誇っていた理由は、発足当時から参加している老舗の人気球団である読売ジャイアンツ、いわゆる巨人の存在が大きかったと言えるでしょう。

今からでは想像がつかないという人がいるかも知れませんが、巨人の試合はほぼ毎試合がテレビで放映されていて、しかもゴールデンタイムで大変高い視聴率を記録していた時期があるほど、国民的な人気を誇っていたのです。さらにそのライバル球団である阪神タイガースの人気も高く、その二球団の試合は伝統の一戦と呼ばれ、とても大きな注目を受けていました。ただ野球人気が低迷していると言われる現在でも、その二つの球団は根強い人気を保ち続けています。

野球ボール

プロ野球界で有名な甲子園

甲子園

プロ野球界では、「死のロード」という言葉が有名です。死のロードとは、8月に開催される全国高等学校野球選手権大会の日程の関係で、阪神タイガースが長期にわたって甲子園球場を使用できず、遠征が長引き成績が低迷することがあったため、いつしか8月の遠征がこう呼ばれるようになりました。

1960年代までは巨人とペナントレースを争う西の強豪としてセリーグを盛り上げていましたが、徐々にチーム力が低下、1985年に21年ぶりの優勝を成し遂げるも、再び下降線をたどります。

スタジアム

1987年から2001年までの15年間で、阪神は実に10回もの最下位を経験しましたが、1997年に大阪ドームが完成して以降は、8月中旬に阪神の主催試合が大阪ドームで組まれるようになり、遠征期間短縮の効果が現れています。2003年には18年ぶりに優勝、2005年にも優勝したほか、2002年以降は最下位になっていないなど、近年は「死のロード」という言葉自体が死語になりつつあります。

遠征期間と成績とのリンクは、交通網の発達や交通機関が整備が進んだこともあり、全てが「死のロード」によるものではありませんが、夏場の遠征期間の短縮によりチームの成績が上がると共にチーム力が上昇し、良い方向へと向かったことに変わりありません。

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野球 カレンダー

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ピッチャー

阪神で活躍した代打の神様 八木裕選手

打者

試合を決める大事な場面で必ず代打として登場する選手がいます。

その選手は代打の神様と呼ばれます。1987年から2004年まで阪神タイガースで活躍した八木裕選手もその一人でした。八木選手は、もともとかなり期待されていた選手で、一時期はレギュラーの座を獲得していました。シーズン2桁本塁打も4度記録しています。しかし、徐々に出場機会が減り始めます。しかし、それが結果として代打の神様八木裕の誕生につながりました。

ホームベース

八木選手は、代打としていいところで打つようになり、しばらくするとファンから代打の神様と呼ばれるようになりました。この頃の阪神タイガースは低迷期にあり、ぼろ負けすることも多かったのですが、代打八木の意地の一打にファンは拍手を送ったのです。

そして阪神は次第に強くなっていき、2003年にリーグ優勝しました。そして、その年も八木選手は代打として大活躍したのです。八木選手にとっては、プロ17年目で初のリーグ優勝でした。八木選手は翌年引退しますが、現役生活晩年についに優勝を経験し、実りの多いプロ野球人生を終了することができました。

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観戦

読売ジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティ選手

クロマティ

ウォーレン・クロマティ選手は、1980年代のプロ野球ファンにとって忘れがたい存在の一人です。彼は1984年に読売ジャイアンツに入団し、持ち前の高い打撃技術と卓越した選球眼で、瞬く間にチームの中心打者として定着しました。中でも1989年のシーズンに記録した打率.378は、当時としては驚異的な数字であり、見事セ・リーグ首位打者のタイトルを獲得。今なお多くのファンの記憶に刻まれる活躍ぶりでした。

クロマティ選手の魅力は、単に数字に表れる成績だけではありません。左打席から繰り出される柔らかなバットコントロールと広角への打ち分けは、芸術的と評されたほどで、状況に応じた対応力の高さが際立っていました。豪快なホームランを打つタイプではなかったものの、毎試合のように安打を重ね、打線の流れを作り出す存在として欠かせない存在でした。

守備面でも安定感があり、外野手としての守備範囲の広さや、的確なスローイングも高く評価されていました。1984年の来日当初から順応が早く、翌年には早くも規定打席に到達して3割を超える打率を残すなど、その適応力の高さは目を見張るものがありました。彼の加入は、当時のジャイアンツにとって打線の再構築と競争力向上において極めて重要な意味を持っていたといえます。

読売ジャイアンツ

そして何より、クロマティ選手はその明るい性格とユーモアのあるパフォーマンスでも知られていました。時にはベンチでのリアクションや、ファンを楽しませるユニークな仕草で注目を集め、東京ドームを訪れる観客に笑顔と興奮を届けてくれました。プレーだけでなく、球場の雰囲気づくりにも貢献した彼の存在は、日本のプロ野球における「助っ人外国人」のイメージをポジティブなものへと押し上げた立役者の一人でもあります。

1990年に現役を退いたクロマティ選手ですが、その功績と存在感は今なお色褪せることなく語り継がれています。首位打者という華やかなタイトルに加え、球団史における重要なピースとしての地位を確立し、昭和から平成にかけてのプロ野球を語る上で欠かすことのできない存在といえるでしょう。ウォーレン・クロマティ選手は、まさに「昔はこんなにも楽しかったプロ野球」を象徴する名選手のひとりです。

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